2013年6月28日金曜日

76. そば処 土師野尾 はじのお

杵の川の酒蔵がある土師野尾町は諫早市の南部にあり飯盛町と隣接しています
この地は古くは日用雑器を焼く窯がありましたが途絶えてしまい現在町名に名残を留めるのみとなりました、南北に延びる浅い谷が平山、土師野尾、飯盛と続いており、真冬は市街地と比べると気温も2℃ほど低く酒造りには絶好の地形です 
本年4月この地に本格手打ちの蕎麦屋さんが開店いたしました
「そば処 土師野尾」 店主の石丸さんは会社勤務の中であるきっかけで長年の夢であったそば職人をめざし修業に励み開業に踏み切られました、材料のそばは最近幻のそばで話題の諫早市高来町の金崎そばです
県道飯盛線の黒木工業さん本社前から山側(東向き)に400m登ったところにあります
当分の間定休日はもうけずに営業しています、日曜日のお昼は混み合ってしばらく待たなければならないように盛況です
江戸っ子は盛りそばと日本酒の取り合わせが粋な呑み方と言われていました、お酒はもちろん杵の川です

店舗の全景
 
県道飯盛線黒木工業様向側登り口
途中の標識見逃してはダメ
絶品ごぼう天そば
定番のざるそばとおかかおにぎり
 


2013年6月13日木曜日

75. 公開呑み切り '13

日本酒は蔵出し出荷されるまでには、酒蔵のタンクで大事に貯蔵管理されています。
日本酒は通常冬場に仕込み春先に火入れと呼ばれる加熱殺菌(65°C)後おおよそ6か月熟成貯蔵をいたします。ほとんどの酒類は貯蔵することで味の風味やバランスが整ってきます。日本酒の品質管理で欠かせない重要な過程に「呑み切」と言う酒蔵行事があります。呑み切は夏場にタンクの封を切り熟成がどの程度進んでいるかをきき酒をして判定する門外不出の重要な作業です。
昨年からこの呑み切を公開し消費者の皆様方にきき酒を行っていただきこの冬できた日本酒の出来栄えを味わっていただきます。このイベントは県内6社の酒蔵の若手経営者の会「純醸会」のメンバーが実施いたします。6社のお酒の出来栄えをお試しください。

日時 平成25年7月5日金曜日 14:00~19:00
場所 長崎市出島町 出島内外倶楽部レストラン2F
会費 500円 入場料 500円

参加銘柄
あい娘、六十余州、杵の川、潜龍、福鶴、萬勝

2013年6月4日火曜日

74. 愛の架け橋諫早の眼鏡橋 3


前置きが長くなりましたが この眼鏡橋には大事なものを硬く結び付けたり、壊さないようにする
強力な秘めたパワーがあります
世界にはイギリスのストーンヘンジ、イースター島のモアイ像を初め石造りの有名な構築物があります、中国の万里の長城、ピラミッドなどはそのスケールの大きさと歴史には目を見張るものがあり大きな観光資源になっています

諫早の眼鏡橋はそれほどには有名ではありません、しかし この橋の持つ神秘的でたくましい生命の根源を表す石造りの構築物はあまりありません
これまで私たちは何気なくきれいな姿の眼鏡橋に見惚れていました

実はこの橋は、暴れ川と呼ばれた本明川で木製の橋はいつも流されて、近隣から橋もない町と揶揄されていた当時の領主と領民の厚い思いが込められた石橋でした

この橋をカップルで渡るとその二人はこれまで以上に固く、深く結ばれます
日本中いや世界のカップルに紹介し、二人で手を取り渡ってもらえば
ロマンス誕生、恋愛成就、子孫繁栄、永久不壊、丁々発止、チキチキバンバン !!!

 
眼鏡橋正面 まじないは中央部にあり外からは見えない
 

2013年6月3日月曜日

73. 愛の架け橋諫早の眼鏡橋 2

昭和32年の大水害後、再発を防ぐため本明川の拡幅とかさ上げ工事のため眼鏡橋は
翌34年に解体工事が始まり、昭和35年7月に組み立て工事が着工され36年9月に
現在の諫早公園に移設されました
移設作業は橋の石材1個1個を分解して記号を付け保存し新しい場所に移し組直すという
手間暇のかかる作業だったと言われています

橋の中央部の分解作業中に謎めいた線画が彫りこまれている1個の石が見つかりました
移設作業には工事関係者のみならず、橋の文化的な価値、歴史的な構造物であったので
諫早市はもとより文部省の技官などが工事に立ち会っておられこの謎の文様の石の意味が
解読されました
それは当時としては高度な建築技術のアーチ橋が決して壊れることがないように
永遠の不壊(ふえ)の橋をとの願いを込めた男女の秘め事を呪いとして彫りこんだものと言われています


石に彫りこまれた文様 
現代では公共の施設に不謹慎と言われそうですが何事にもおおらかであった時代の
切実で必死な思い入れの中に可愛くも微笑ましい往時の人々の思いが伝わってきます
     

2013年6月1日土曜日

72. 愛の架け橋諫早の眼鏡橋 1

諫早の眼鏡橋
          行き戻りすれば 
                     おもしろかなり

本稿50号に眼鏡橋異聞と題して、あまり一般には知られていない眼鏡橋の秘密をご紹介しています
昭和32年7月25日は朝から断続的に猛烈な雨が降り続いていました
酒呑老子は当時中学校1年生で中体連の開催中で、北諫早中学校で行われる陸上競技が中止されたと記憶しています
豪雨で本明川は警戒水位を突破し、夕刻4時頃支流の大上戸川もあふれ八坂町にあった私の生家黎明酒造も浸水がはじまりました、そして一夜にして600名の尊い命を奪い去ってしまいました

この原因の一つが本明川に架かった唯一の石橋 眼鏡橋でした
天保10年 時の諫早領主諫早茂洪(しげひろ)の命によって洪水に耐えられる堅牢な石橋が完成し領民は以後この橋によって生活を支えられてきました




昭和初期の写真左が水月楼側

昭和32年の水害では皮肉にも堅牢が故に流木が本明川の流れをせき止め被害を拡大させました

諫早水害以降この橋は、本明川の拡幅、かさ上げ工事のため現在の諫早公園に移設されることとなりました水害により橋の欄干など一部は流失していましたが、工事に携わる人たちの丁寧な作業でそのほとんどは拾い上げられました  
  73号に続く