2012年10月19日金曜日

35. 諫早の眼鏡橋 Part 2

諫早の眼鏡橋については60歳未満の市民にとっては公園に架かった橋という認識しかないと思います、ましてやこの橋が架けられた経緯など多くの市民もご存じないと思います

暴れ川本明川は古くより大雨のたびに氾濫し川沿いには流町と呼ばれる町名もあり
橋も架けてはすぐに流され、橋のない町と近隣の領主たちに揶揄されていましたが
第12代領主諫早茂洪(しげひろ)公はそのような状況を何とかしたいと天保9年2月洪水に耐える石橋の建設を命じましたその命は虹のような橋ということでした

当時長崎にはすでに眼鏡橋は存在していましたので、普請の責任者は参考にしたと思いますが長崎の中島川より川幅が広く、その上虹の姿という命令です
しかしこの難題をわずか1年で解決し見事な石造りアーチ橋が完成しました

アーチ橋の特徴を示す指数に拱矢(きょうし)率なる物があるそうです、これはアーチ長さA
アーチの半円の高さBで割った数字で、正円の半分(下図左)の形のアーチは拱矢(きょうし)率 となります諫早の眼鏡橋はこの率がおおよそです
つまり正円の半分より広がった形ですのでそれだけ強度も建造方法も難しくなりましたが、当時の技術の粋を集め天保10年8月に完成し盛大な渡り初めの儀式が執り行われました






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